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★ 心支えた捨て犬「クロ」★
〜 帰還船追い氷海に…ともに日本へ 〜
 
真っ黒な雌の子犬が、ハバロフスクの収容所にいた。名前は「クロ」。日本人抑留者たちが飼っていた。
 シベリアでの抑留生活も10年を過ぎたころ、野外の作業所に捨てられていたのを、だれかが拾ってきたらしい。抑留者たちはわずかな食事を少しずつ分け与えてかわいがった。
 当時は抑留者の処遇も徐々に改善され、日本から小包も届いた。井上平夫さん(84)も、菓子などを与えては、クロの頭をなでた。
 「日本人にはなつくのに、ソ連兵を見るとけたたましくほえてね。まったく私らの心情をわかった、賢い犬だった」

 「矯正労働25年」。ソ連の軍事法廷が1949年8月、井上さんに出した判決だ。気の遠くなるような年月を極寒のシベリアで働き、思想を「矯正」しなければならない。理由は、井上さんの軍歴にあった。陸軍中野学校を出た井上さんは、特殊任務、つまりスパイ活動に携わっていた。
 自分から望んだ任務ではないが、選ばれたからには国のために身をささげようと覚悟した。モンゴルの民族社会に溶け込み、ソ連軍の情報収集などを行った。
終戦後、満州(現中国東北部)でソ連兵に捕まった。
 一般の抑留者とともに収容所を転々としたが、判決後は、奥地のタイシェト近くの囚人用収容所に入れられた。わずかな黒パンと塩汁だけで、来る日も来る日も鉄道工事に駆り出された。50年4月、ソ連が「戦犯を除き、日本人抑留者は送還した」と発表した。戦犯とされた自分はまだシベリアにいる。日本で待つ母の落胆を思い、打ちひしがれた。
 その後、ハバロフスクに移され、クロに出会った。
 クロが球拾いをする野球大会は「クロ野球」と呼ばれ、抑留者の大きな楽しみだった。深夜、収容所の火事をクロが見つけ、事なきを得たという手柄話も残っている。先の見えない抑留生活の中で、井上さんにとっても、クロは心の支えだった。昼間の作業を終え、くたくたになって帰ると、クロがしっぽを振って迎えてくれた。疲れが和らいだ。
 56年10月の日ソ共同宣言調印を機に、すべての抑留者の帰国が決まった。クロとの別れでもあった。

 「クロだ!クロがいるぞ」。抑留者の一人が、岸壁を指さして叫んだ。
 56年12月24日朝。井上さんを含め、最後までシベリアにとどめ置かれた1025人の抑留者が、帰還船「興安丸」でナホトカの港を出港した。その直後、クロが氷の海に飛び込んだ。
 ハバロフスクからナホトカまで、約800キロ。だれかがこっそりクロを帰国列車に乗せたのか…。真相はは分からないが、とにかく、クロはナホトカまで来ていた。
 「戻れクロ、死んでしまうぞ!」「岸に帰るんだ!」。抑留者たちは甲板で叫んだが、クロは割れた氷を渡り歩いて追ってくる。氷の間から海に落ちた。抑留者たちの悲鳴が上がった。
 何度も帰還船の航海をこなし、“引き揚げ者の父”と呼ばれた玉有勇船長が船を止めた。縄ばしごで下りた船員が、クロを抱き上げた。甲板に響く歓声。クロはぶるっと体を震わせて、全身の氷を振り払い、しっぽをうれしそうに振った。みんな涙が止まらなかった。
 そのままクロも舞鶴港(京都府)に「帰還」した。近くの住民に引き取られ、数年後に生まれたクロの子は、玉有船長の家に贈られた。船長は73年5月に66歳で亡くなったが、長男の正明さん(70)は「抑留者とクロの交流に父も心を打たれたのでしょう。もらった子犬はクロと同じく真っ黒で、おとなしい犬でした」と、振り返る。

 11年間に及んだ過酷な抑留体験だったが、井上さんは、クロの話をする時だけは、目を細めた。「自分を救ってくれた日本人のことを、クロは命がけで追ってきた。互いに苦しかったからこそ、心が結びついた。つらく長かった日々の中で、そこだけが今も輝いているようです」
【読売新聞/2005年9月25日 社会面掲載「戦後60年シベリア抑留(中)」より】

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